落語「芝浜」で考えてしまう時代の質

先日のように、体調が悪くて会社を休み、病院へ行くことで、給料が減る+臨時の出費が掛かったりすると、体に負担をかけずにお金が手に入ったらいいなぁ、と思ってしまう。宝くじが当たったりしてね。
でも、そんな時、思い出すのが、落語の「芝浜」。 (立川談志さんをラジオで。随分昔ね。)
話は、大金の入った財布を拾った亭主が、これから当分遊んで暮らせることの前祝だと仲間を呼んでのドンチャン騒ぎ。あくる日に、あの財布はどうしたと、おかみさんに尋ねるけど、そんなものは無くて、拾ったのは夢でも見たんだろうし、働かなくって手に入れたお金で生活しようなんて情けない人間だ、といさめられる。奮起した亭主はお酒も絶って、一生懸命働いて魚屋の店を構えるまでになった。3年経った大晦日に、落とし主が現れなかった例の財布を見せて、おかみさんは嘘を詫び、亭主の方も、お陰でここまでやってこれたと感謝する。久しぶりにお酒を勧められた亭主だけど、“よそう、また夢になるといけねえ”というオチがつくものですね。
働かないでお金が手に入ることを望む気持ちは、この落語を聴くと、いまでもいさめられます。
しかし、今の世の中、真面目に働いても金銭的に報われることがあまりにも少ないと思う時、人間を支える時代の質に戸惑ってしまいます。
2月15日の日記で、池田晶子さんの「14歳の君へ」を引用しました。
「生きてゆくためには、お金はやっぱり必要だ。やっぱりお金は欲しいと思う。なんだか自信がなくなったら、こう自問してみるといい。私は、食べるために生きているのか、生きるために食べているのか。
生きるためなら、何のために生きているのか」と。
今日はもう少し先を、読んでみよう。
「なるほど現代社会では、お金で買えないものはなんか何もないみたいだ。豪華な家、豪華な服、豪華な旅行、お金があえば好きなだけ買えるし、お金があれば、人にもちやほやされて、寂しい思いをすることもない。だから、お金がすべて、お金さえあれば幸福なのだと、多くの人が思っている。・・・
生活はお金で買うことができる。しかし、幸福をお金で買うことは絶対にできない。なぜなら、幸福とは、職業や生活のことではなくて、心のことだからだ。・・・
幸福というものを、お金に代表される、職業、生活、暮らしぶり、外から見てわかる形のことだと思うことで、人は間違える。・・・人がうらやむような生活をしていても、その人の心が幸福であるとは限らない。逆に、心さえ幸福なら、人から見ていかに不幸に見える生活をしていても、その人は幸福だ。他人からどう見えようとも、自分の幸福とは関係がない。これは当たり前なことじゃないか。
幸福を他人と比べられると思うことで、人は自分を不幸にするんだ。」 ( p172〜4 )
宝くじが当たったら、などというのは何か劇的な変化を求めている、ということだろうし、その根底には今の自分(の境遇)に対しての不安や不満があるのだと思う。 それが解決されれば本当に自分が望む自分(の生活)になれるのに、というように。
働かなくてもいい悠々自適の生活が手に入ったとして、そこから本当の自分であることが出来る時間が始まるのか? そう問われると、自信はないね。ワーキングプアや当事者性について考え続けることが本当にできるのか。格差は人ごとになってしまわないか。そうなったら、この問題は社会を規定する本質的なことがらに繋がっている、と考える自分のありかたと異なってしまわないか。違ってしまう自分を今度は楽しみましょう、とはなりえないことだけは確かだ。
わたしは私であることができる必要な場所に立っている。しかし「何か劇的な変化を求めている」。
食べるためには働くし、働くことの人間的な意味付けも考えつつ、またその働くことをめぐる社会的な環境が理不尽であったり、不合理であるなら糾していきたいと思っている。しかしそれだけには収まりきれない自分がどこかにある、という感覚も。
池田さんは、さらに先のところで「人生というものは、・・・具体的な将来像のことを言うのだろうか。君が自分の具体的な将来像として想像しているものが、人生というものなのだろうか。
人生というのは、あれこれの将来像のことじゃない。それらの将来像が可能であるための、生きているということ、生きていることそのもののことを、『人生』と言うんだ。いつ死ぬかわからないのに、でも生きているというそのことをね。それじゃあ、その『生きている』ということは、どういうことなのだろう。
人間は、必ず死ぬ。年をとってから死ぬんじゃない。生きている限り、すべての人は必ず死ぬのだから、それは明日かもしれないし、今夜かもしれない。・・・この、ものすごく当たり前の事実を、しっかりと受け止めることだ。・・・どうして宇宙は存在して、どうして人は生きて死ぬのかなんて、いったい誰に問えばいいだろう!
君は、本当の人生と、ウソの人生と、どっちを生きたいと思うだろうか。
本当の人生とは、人は必ず死ぬという事実をしっかり受けとめて、しっかりと生きていく人生だ。ウソの人生とは、人は必ず死ぬという事実から逃げて、ごまかしながら生きていく人生だ。・・・
本当のことは、本当のことなんだから、受け止めてしまえばもう怖いものはない。・・・人間が生きて死ぬということは不思議なことだ、そう知っている君は、誰か身近な人が死んでしまっても、ただ嘆き悲しむばかりではないはずだ。あるいは、宇宙に存在する人間は何をしているのだろう。その不思議を知っている君は、世の中の金もうけ競争に巻き込まれることもないはずだ。
不思議を不思議と知り、なおそれはどういうことかと考えることを知っている君は、飽きるということを知らない。・・・考えれば考えるほど、謎は深まる。考えるのは、他でもない、この人生が存在するという謎だから、考えるほどに、人生は味わい深い、面白いものになってくる。・・・せっかく生きているのだから、この面白さを、めいっぱい楽しんでみたいとは思わないか。・・・ひょっとしたら、それが、このわけのわからない人生が存在するということの、意味なのかもしれない。」 (「14歳の君へ」 p178〜181、184〜7 )
私が欲する「劇的な変化」=精神的な変身・充実、自分を広げることのイメージは、池田さんの問題の立て方、メタな論理よりも、もう少し現実社会の中でのあり様を探る感じはするけど、顔の挙げ方・方向は参考になるなぁ。