東山魁夷さんと時代の息吹

6月4日の日記の終わりで、「時代の息吹の表現者となること」を書いたのですが、書きながら息吹というものが、芽吹きと音が似ているし、新しいなにかへのイメージと重なるな、と思っていました。
例えば、先のティントレットの「受胎告知」の場合も、人間的な感情を赤裸々に表現することで、絵画的な表現の枠を広げた、という感じに受け取れましたから。
今年は画家・東山魁夷さんの生誕100年ということで、書店にも各種の画集が並べられています。東山さんの絵は、独特の色彩と様式的な表現を感じます。現実でないような世界を描き、自己の内へ沈潜する一種の唯美的とさえいえる世界が追求されていると思います。
東山さんの個人史を知るとき、戦争を境に、人間的真実の精神的なあり方を追求した結果だとするなら、そこにも現実と切り結んだ「時代の息吹」が存在すると言っていいのではないでしょうか。
戦後の経済復興や民主社会の実現という、いわば私たちを取り巻く外側で起こっている「新しい」側面ではなく、戦後の混乱の時代から立ち直るための精神的な拠り所を、私たちに見える形で示してくれたと。
戦前の時代精神を規定してきた「国体の本義」に典型的に見られるような、国・共同体との関係においてのみ人間の本質的なあり方を追求するのとは別の、より「自由な」、見晴らしのよい人間的な存在の核となるたたずまいを具象化したことにより、人々は、今までとは違う国・共同体との関係を再考しうる契機を得た、とも言えるのではないでしょうか。
ここには、時代と切り結んだ「息吹」というものが確かに感じられます。
ここでの「新しさ」は、まったく最初のとか、新奇なという新しさではなく、人間の存在のある層にたいする感応・認識とでも言っていいものでしょう。それは、日常の生活や社会的な危機、激変の時(代)に、それを相対化し、新しい視点や意欲を来たらす、そのつど「新しい」ことがらとして立ち現れてくるものかも知れません。