まじめはむつかしい

5月18日の日記で、「自分が何者であるかは、他者との応答の中でのそのつど明らかになってくる、ということだと思うので、いつでもその応答にたいしては、柔軟な精神を持っていたい。そしてこのことを大切なことと考えたいのです。」と、他者とのあり方について書きました。
先日から読んでいる『悩む力』の中で、姜尚中(カンサンジュン)さんは、他者との関係を「相互承認」という言葉で書かれています。
「自我というものは他者との『相互承認』の産物だと言いたいのです。・・・もっと言えば、他者を排除した自我というものもありえないのです。・・・
では、他者とつながりたい、きちんと認めあいたいと思うとき、いったいどうしたらいいのでしょうか。・・・『心』の中で、漱石は一つ、とても大事なことを教えてくれています。それは『まじめ』ということです。『まじめ』というのは、『中途半端』の対極にある言葉ではないでしょうか。・・・
まじめに悩み、まじめに他者と向かいあう。そこに何らかの突破口があるのではないでしょうか。とにかく自我の悩みの底を『まじめ』に掘って、掘って、掘り進んでいけば、その先にある、他者と出会える場所までたどり着けると思うのです。」 ( p40〜42)
人は、というか私自身、“自分としてはまじめに振る舞っているほうだ” と思ったりするんですが、他の人の言動に接する時に、その人のその時の気持ちになって、それを受け取っているか、という点については今考えるに自信がない。自分の中にある過去の経験を参照して「対応」してきただけという気もします。
その人のその時の気持ちというのが、言葉としてこちらに直接送られてくることも少ないでしょうが、それゆえに、自分が“こうだろう”と考える相手の気持ちに「対応」することになる。すべては自分の中で完結しているようなものだ。
相手の気持ちを大切に出来るということは、自分が柔軟でありながら、どこかに勁さ(つよさ)をもっていることが必要じゃないかと、今思った。他者を自己の中で変容させ取り込んで完結しているのは、自我にまだなっていない自我じゃないかとも思った。