「まじめはむつかしい」のチョット続き

昨日の日記で、他者との応答の中で柔軟な精神を持てるというのは、ある種の勁さ(つよさ)に裏打ちされているのではないか、と書きました。
では、その勁さというのは何であり、どこから来るのでしょうか。
相手の気持ちだとか考え方だと、こちらが思っているものが、自分の経験や理解に照らし合わせての、ある種のバイアスが掛かったものじゃないか、それゆえに本当の他者(の気持ち)が私の前に居るのではなく、(一種の)自分自身が自分に対応しているようなものではないか、というのが昨日の日記でした。
姜尚中(カンサンジュン)さんは、「悩む力」の中で、自我は他者との相互承認の産物だ、と言った後に「そして、もっと重要なことは、承認してもらうには、自分を他者に投げ出す必要があるということです。」 ( p40)とも書いています。
バイアスの掛かった受けとめ方を戒める、というかそれをなくすためには、自分を投げ出すくらいの気持ちでちょうどいい、ということが言えると思います。(「もっと重要なことは」というニュアンスとはちょっと違うことになっていますが、今はこの「投げ出す」ことについては、先に行けません。)
他者の気持ちを受け止めるということは、まずは自分の考え方、枠組みをはずして受け止めるということではあっても、相手の気持ち、考え方を正しいものと捉えてかかるとか、それに自分を合わせてゆくということではないはずです。
自分のバイアスをほとんどゼロにしつつも、批判的というか、選択的な対応が出来る必要もあると思う。
そして、そのためには、自分に対してOKが出せている・自己評価が高い・自尊心があることが、大切なことじゃないかと思う。まあ、そのOKとか自尊心も、以前どこかで他者からの承認によって得たものですけどね。
昨日のことに足したい何かがあると感じましたので。