「人生が二度あれば」

姜尚中(カンサンジュン)さんが、夏目漱石についてTVで話しているのを見て・・・と2月16日の日記に書きました。その後で、そのTVの番組「知るを楽しむ・私のこだわり人物伝・夏目漱石」が再放送されたけど、うまく録画できなかったりで見られなかったんです。そんな折、書店で「悩む力」(集英社新書)を見つけました。
漱石とウエーバーは、『個人』の時代の始まりのとき、時代に乗りながらも、同時に流されず、それぞれの『悩む力』を振り絞って近代という時代が差し出した問題に向き合いました。彼らの半生記に及ぶ生涯には、『苦悩する人間』のしるしが刻みこまれています。そんな彼らをヒントに、また、私自身の経験や考え方も交えながら、『悩む力』について考えてみたいと思います。」(序章 p23)と、あるように本全体の様々なテーマについて、著者が漱石からうけとったものが書かれているので、先日見ることができなかった「こだわり人物伝」の代わりとして買ってきました。
そのなかに福沢諭吉の「一身にして二生を経る」という言葉が載っていた。私はこの言葉を読んだ時、「人生が二度あれば」という歌を思い出しました。私は井上陽水のこの歌を聴くと涙が出てどうしょうもないのです。
自分自身の若いころとか、今まで生きてきた中でいっぱいあった悔やまれることのせいではなく、父や母の人生を思って・・・。あの戦争さえなかったら、父や母はもう少し健康でいられたんじゃないかと。「買い出しで、体を悪くしちゃった・・・」。すこし腰をかがめて歩く母の姿。私だけが戦後生まれで、まだ小さかった兄や姉を、戦後の大変だったろう時代のなかを育てるのは、カンナで身を削るような毎日だったはずだ。
1曲だけで、その人の名が残るのが名曲だとするなら(すぐれたアーティストは、どの曲も皆にそう思わせるものかもしれないけど)、「人生が二度あれば」は、私にとってそんな名曲です。
井上陽水の歌でもう1曲印象的なのは「傘がない」。
「政治の季節」の後の脱政治的な風景を歌った?と考えられていた。“わが国の将来を深刻な顔で語るより、いま問題なのは、雨のなか君に会いに行きたいのに、傘がないことだ。”
切実に<会いたい>とされる対象があるものの、会いに行くための手段や方法が見つからない。それだけ一層<会いたい>思いがつのる。
政治は日常の生活者として、切実さをはらんだ当事者として向かい合うことがらであり、今の満たされない思いを解決するために<会いたい>対象である。
「政治の季節」が去ったあと、様々な時代風潮を経たものの、政治的な課題は、より複雑さを増しながら続いている。今の時代が、この歌のそんな聴かれ方をさせるのでしょうか。
以前に放送された「井上陽水空想ハイウェイACTⅢ−YOUSUI TRIBUTE」のなかで、UAが「傘がない」を、ギターとベースそしてドラムをバックに、あのハスキーな声で、時には語るように自在なテンポで、<会いたい>切実さを歌った。そういう今の時代の聴かれ方を呼び覚ます圧倒的な歌唱でした。
<会いたい>その切実さが、聴く者の様々な切実さを共振させる。