文章の力

musicauac2008-06-01

ず〜っと、気になっている名前があるんです。書店に行って文庫の棚あたりを通りかかると、あ・い・う・・・う・・・う・え・だ と探している著者なのです。上田三四二さん。
そのお名前をはじめて目にしたのは、木下杢太郎の「百花譜百選」の復刻出版案内パンフの中に、何人かの追悼文章が採録掲載してあり、そのなかの1人としてでした。
過不足のない、まったく無駄のない文章というか、必要な言葉が必要とされる場所にきちんと置かれた文章。端正でありながら、哀悼の痛切さが読む者に深い感銘を与える文章でした。文章の力というものを見せつけられた思いでした。
「無私なる写生にこもる勁い精神」と題された文章が以下です。
「中学で、画家を志して容れられなかったこの万能の才の最後の作品が、『百花譜』であることの意味は量りがたく大きい。
戦中の2年と5ヵ月にわたる歳月は杢太郎にとっては死に直結する歳月であったが、その間における彼の毎日は、あげて『百花譜』の制作に向けられた。この丹精をこめた植物写生図集は、困難な時代に処する彼の唯一の慰藉だった。余命がないと知ったとき、彼はそれに通し番号をうち、表紙をつけ、『百花譜』の名を与えた。
見事な画技である。見事な画技が敬虔に自然を写し、花に聴いている。そこに場所と日付のあるのは、それが彼の日々における生の記録だからだ。花が時間を運び、彼の生も花とともに時間に運ばれつつ、花の上に止まる。
『百花譜』は子規の『草加帖』の系譜を継ぎながら、比べるものがないほど大きく、豊かで、かつ厳密な世界を拓いている。そして、無私なる写生のうちにこもる詩人の勁い精神の韻(ひび)きは、この、選ばれた百葉のなかに、まぎれもない。」


近くの古本屋さんに立ち寄ったとき、上田さんの文庫を見つけました。
「この世 この生」(新潮文庫)。

「私は自分に残された人生の時間を滝口までの河の流れのようなものとして想像した。・・・滝口までの距離は滝に呑み込まれる最後の瞬間まで測定不能である・・・死の滝口は、そこに集まった水流をどっと瀑下に引き落とすとみえたところで、神隠しにでもあったように水の量は消え、滝壺は涸れている。それが死というのものありようだ。・・・
私は魂の持続を信じることが出来ず、身体の消滅のときをもって私という存在の消滅するときと観じて、その死までのさし迫った生をどのように生きるかに関心を振り向け、或る偶然から・・・『徒然草』にちかづき、その一種の静寂主義ともいうべき隠遁の人生哲学に共感を見出してきたのであった。
私は兼好によって示された心身永閑という心術の地平を離れたくないと思っている。それは死の恐怖に対するもっとも姿勢の低い態度であり、またもっとも平静で、神秘的なところのない、現実的な有効性を持つ態度にはちがいなかった。・・・
あえて、この地平に匍匐するような兼好の立場からいますこし頭を持ち上げてみたいという欲求がおこるとき、言い方は唐突だが、西行が私を誘う。」 (p11〜15 )
このようにして、私たちは著者の思索とともに、西行良寛明恵道元へと案内される。少しずつ大切に読んでいくつもりです。