イラク「当事者」としての高遠さん

高遠さんは、イラク人じゃないので当事者じゃないけど、当事者性を獲得している、ということだね。イラクへ行くまでのところは、前の日の日記で引用して流れはわかったけど、当事者にぎりぎり近づく気持ちを語っているところがあるよね。前回は引用が長くなると思ってそこんとこは書かなかったけど。
「戦争は1回やっちゃうと終わんないんだっていう現実を間近で見てしまった。」という続きのところ。
「その後、9・11です。カンボジアの実態を見ていたから、ブッシュがアフガニスタン攻撃をした時アフガニスタンに行かなくちゃって思っていたんです。
そしたら、アフガニスタンアメリカ軍による誤爆で地雷撤去のNGOの人たちが死んだっていうニュースがとびこんできました。カンボジアで地雷原を見ていたからものすごいリアルに状況を想像してしまい、怖くて行けなくなってしまった。
どうしたらいいんだろうって悩んで、食事も喉に通らなかったです。涙がばんばん出てくる。こうしている間にも人が死んでいるって思うと、いてもたってもいられない。でも何もできない。そんな状態で、結局、アフガニスタン攻撃から1年くらい踏み出せないまま悩みました。
・・・そらからイラク戦争になるわけですが、その時もイラクの戦争をリアルに想像してしまいました。それでイラクのことを調べていくうちに、劣化ウラン弾の被害や、経済制裁で100万人以上死んでいることがわかりました。(今度は自分を一歩前に進ませるために、より現実に近づこうとしたんだね−引用者)・・・私は戦争、紛争、内戦、内紛というものにちゃんと向き合ってこなかったって思うと、苦しくなりました。そういう経験があって、やっとイラクに向かうんです。」
「・・・昔、ピースボートで報告会をした時、同じ船に講師としてのっていた戦争の語り部の方にこう言われたことがあります。『あんたは戦争を見ちゃったんだね。見ちゃたら、それを人に伝えなくちゃいけない。これは宿命なんだよ。』って。ああ、そうかってその時思った。
もちろん戦争を知らなくたって、できることはあります。無力感って自己暗示だと思うんです。だって、この世に存在して息をしている時点でもうすでにイラク戦争を後押ししているし、この社会を後押ししているし、嫌だと思っている世界を無力感という言い訳で後押ししている。」
「この世に存在して息をしている時点でもうすでにイラク戦争を後押ししている」という表現を聞くと、『生きていること自体が資本主義を支えている』だとか『内なる天皇制を・・・』というかつての自己否定の表現を連想してしまいますが、「この世に存在して〜」は、高遠さんが無力感からどうしたら脱け出すことができるかと苦しんだ、その体験からの言葉として聞くべきでしょう。
「私、『ボランティア活動家』っていう肩書きが嫌いなんです。ボランティアって、肩書きがつくような特別のことではないと思います。愛っていうか、人間そのものだから。『私にはできない、高遠さんがんばってください』みたいなことを言う人には、『いやいや、あなたが息をして存在している時点で世の中を動かしています』って返したい。」
そして視点を変える、何かに気づいたキッカケ、その時の自分の気持ちを大切にすることを述べている。
「私がイラクの現状報告として高校生とかフリースクールの子たちにこういう(ストリートチィルドレンの)話をした時は、『思うところがあった』『すごく親近感がわいた』っていう感想をもらいました。日本の社会で鬱屈している子どもたちが、イラクの子たちに対する親近感をきっかけに別の世界を見てみたいって思ってくれたらいいなあって思います。」
対談者の雨宮さんもそのあたりことを次のように述べています。
「私のまわりには、自殺未遂者や自殺願望者がいます。ある種自分からの逃避として世界について考えると、自分がものすごくちっぽけだってことが身にしみてわかるから、そういうひとこそ世界について考えたらいいと思います。それって1つの療法と言ってもいいかもしれない。
私自身が自分の問題でいっぱいいっぱいになっていた時にあまりにも壮大な世界のことに目を向けることで救われましたから。『こういう理由で私は生きづらいんだ』ってわかりました。
視点を変えれば、自分が社会に適応できないのは資本主義という競争社会になじめないからだてことに気がつくし、世界の成り立ちにも関係してるってわかる。私はそれがわかった時、すごくびっくりしたんですよ。世界が180度変わって見えた。誰もそんなこと教えてくれなかったし、そういう風に考える回路がなかった。」 (p 159〜160、162、164〜5、176、174)
「雨宮さんは、自分に向きがちな『責任論』を『生きづらいのは、あなた1人のせいじゃない』と言っている。どこまで届くのかはわからないにしても、それが雨宮さんの正義なんじゃないかと思います。」これは今読みかけている「『若者論』を疑え!」(宝島新書)のp42。
ちょっと長くなった今日の日記でしたが、結びに以前も引用したところを。
「私は傍観者として生きることの方が苦しい。自分が何を思おうと、何をしようとこの世界がまったく変わらないとしたら、これほどの絶望はない。」(雨宮 p227)