もう一度「理想」と「他者」について
「なぜこうも夢・理想と他者との関連のことを言っているかというと、私自身が、理想とかやってみたいことを考えようとした時、私にとって切実な他者が存在していないからです。」
前回の日記での文です。生活の不安定さからくるいろいろな「希望」はありますよ。仕事ができて家賃が来月も払えますようにとか、周りの音を気にしなくていい住環境を保てますようにとか、食費にもう少し出費ができますように、病気になってしまった時のための蓄えのお金が工面できますように等々。これらは「自己保存の欲求」に近いものでしょうし、これらを「夢・希望・理想」と言うのは、やっぱりさみしい。
「理想」と「他者」は密接な関連があるものと考えたい。私が2月29日の日記で「当事者というのも・・・そして次の段階として、そうとしか存在できなかった自己の「解放」を、社会的な関係性のなかに見出そうとする(当事者性の獲得)のではないだろうか。」と当事者性を言うとき、社会的な関連性の内に問題解決の方向を見ようとしているのは、理想と他者の関連性を考えようとするのと同じものが含まれていると思う。
私が当事者であることの確認をしたいと思っているのは、当事者としておかれた現状のあり方を変えてゆく・当事者がこうむっている不利益を解決してゆこうとする当事者性という回路を通じて、社会・他者とつながりたいという欲求であったと思う。
理想を他者との関連で考えようとする時、文学を他者との関連でとらえようとした漱石についての文章のことを思った。
「漱石の心にはつねにふたつの相反する考えが潜んでいた。まずひとつは『芸術のための芸術』という考え。・・・もうひとつは、文学には重い使命があるという考えだ。・・・この葛藤の具体的な一例が・・・『草枕』にこめられているのではないだろうか。・・・
世の雑事には無関心を決めこみ、のんきにしていられるとしたら、生きるのもさぞかし楽だろう。漱石はそんな考えを禅思想と結びつけたようだ。・・・では禅僧のように世俗に無関心を決めこみ、のんきに生きるのは、感心できることなのだろうか?・・・漱石が禅と、世俗に無関心でいるその立場に強く惹きつけられていたのはあきらかだ。
しかしわたしは、その思想と現実生活とのずれという対比こそが、『草枕』に登場する画家の姿を借りて、たっぷり表現されているのではないかと思う。
画家は、現代社会の現実に妨げられることなく、芸術の美に没頭しようとしていたが、理想的な世界に浸りながらも、理想とする絵はけっきょく一枚も描くことができなかった。・・・なぜ漱石は、『草枕』のように美しくもユーモラスな小説にこだわらなくなったのだろう?なぜなら、漱石はこうしたお気楽な芸術を熱望し、それをみごとに創りあげるだけの腕を持つ一方で、文学の役割はこういうかたちで世俗の問題からかけ離れてはならないと肝に銘じていたからなのだ。文学の書き手たるもの、現代社会における人生の大問題について熟考する必要がある、と。・・・
たしかに漱石の言う通りだ。人生といのは、自分自身を支える手段を見つけるべき場所であり、たびたび家族と複雑な関係に陥る場所であり、定期的に病魔に襲われ、野望と願望という葛藤をなだめるべき場所であり、自身の才能を見つけようと飽くことなく苦しみ、自身の個性の複雑さとも折り合いをつけなくてはならない現実的なところなのだから。だから漱石がつぎに着手したのは、そうした日々の問題を提起し、複雑な現代社会のなかに道を切り開くことだった。」 (「世界文学のスーパースター夏目漱石」 p98〜102)