人生の意味

夜、TVで探検ロマン世界遺産アウシュビッツと広島をチャンネルを回していてたままた見た。
アウシュビッツから生き残ることができ、今は語り部としてその残酷さと罪を次世代に記憶として伝えようと活動しているポーランド人。広島は、10代で被爆後、故郷の韓国に帰った韓国人の苦難。被爆者の10人に1人が、韓国の人だということをはじめて知った。そして被爆者手帳が日本にいる時だけ有効で、故郷へ帰ったら無効になっていたことも知らなかった。結婚する孫と一緒に来日して、爆心地で兄弟が亡くなった様子を話して聞かせる。人は他人に隣人として接しなければいけない、という孫の言葉を聞き、生きてきて良かった、と。
お二人には、語るべき対象と語るべきことばがある。そしてそれを聞いてくれる人がいる。ここでいきなり、それにひきかえ私は、などと言い出すつもりはないけれど、私は何を誰に向かって語るのか? を小さな声で、心の中で言ってみた。それがなければ・・・。家族のない私が生きるって、どういうこと? 働いてどうにか自分の口は養っていけてるけど、人生それだけじゃないでしょ? と思う。あまり振りかぶって言うつもりはないのだけど・・・
2月25日の日記に池田晶子さんの引用をした。
『人生とは何かと言えば、一言でいえば「生まれたから死ぬまで生きている」ということですから、その意味ではこれ以上の意味はありませんね。
それをもっと正確に言うと、「生きるの死ぬの」というのも言葉でそう言っているだけのことだ、ということに気づくわけです。・・・つまり人生すなわち存在には、実は意味なんかないのではないか、自分でそこに意味を与えて苦しんでいただけだった、この自縄自縛の構造というものに気がつくことですね。
「意味がある」に対する「意味がない」ではなく、意味「ではない」という意味で「非意味」、この存在の非意味ということに気づくことが、もしかしたら救いなのかなと思えなくもない。』 (「人生のほんとう」p112〜3)
引用したから、そのことが分かっている、ということでは全然ないね。
でも、池田さんの論理の冷徹さにちょっとたじろぐね。まあ論理の抽象度が違うんだよね。「生活の個別的なあれこれの問題から、存在とは何かという問いに変わった」レベルでの論理だと本人も仰っていますからね。