文学に興味が無いなんて

「世界文学のスーパースター 夏目漱石」を買ったのは、漱石の魅力を語るその新鮮さだった(ほとんど漱石を読んだことがないのに何故そう言えるのかと、突っ込まれると困るけど。だけどなんだか清々しく真っ直ぐな印象だった)。 もう一つは文学への思いを語るその語り口の熱さだった。例えばこんな具合。
魯迅医学生として仙台に留学していた1906年、人生を文学に捧げるために医学の道を放棄したことは有名だ。・・・ある日、魯迅医学生仲間と一緒に、ロシアの諜報員として日露戦争中、日本人に処刑される中国人男性のスライドを見ていて、落ち着かない気分になった。その処刑を周囲でながめるほかの中国人の冷淡な態度が気になってしかたがなかったのだ。
そのとき彼は、中国に西洋医学を広めようといくらがんばったところで、中国国内の根本的な政治不安が解消されることはない、と悟った。中国という国は精神的に病んでいるのであり、それを健全な精神に戻すことができるのは文学だけだ、と彼は考えた。文学を通じて、中国人が堂々と胸を張れるようにならなければ、あたかも人間的に劣るといわんばかりの外国人からのあつかいをやめさせなければ―彼はそう考えたのである。
しかしなぜ、それができるのは文学だけなのか? 哲学や政治論ではどうしてだめなのか?なぜなら、文学なら人類という大きなキャンバスにアイディアを描きだすことができるから。わたしたちの信念や個性が、日々の生活のなかでどのように作用するのかを、そこに見ることができるのだ。
哲学者や政治学者が抽象的な論議を交わすのは結構だが、そうした学者のアイディアには往々にして常識的な現実味が欠けており、一般人の興味を惹きつけるには難解すぎるきらいがある。
それにくらべ、ほかの人間、血の通った現実的な人間がどんなふうに人生を歩み、時代と対峙するのか、ということには当然ながら興味がわいてくる。・・・人はそれぞれちがっており、異なる人格は、同じ環境にもひどく異なる方法で反応する。
人生はややこしく、混乱していて、人は思いもよらない本能的な方法で人生を歩むものである。そうした複雑さにほんとうの意味で取り組むことができるのは、文学だけ―わたしはそう信じている。」
こうした文章を読んだ後で、「私は文学には興味がないのです。」といえば、「それは、人生に興味がない、と同じことだよ。」という答えが返って来ることになるのは、分かり易い流れだよね。 「私は文学には興味がないのです。」と言ったのは私。 どういう話の展開から、そんな話題になったのかは覚えていないけれど、相手はサークルの顧問の教授。
今思うと、私が文学と言いながらイメージしていたのは小説。小説は役に立たなかったんだ。私が高校卒業後、就職した会社を辞めたいけど、その後“どうしたもんかな”と考えていた時、小説をいろいろ読んでみた。でもそこからはヒントが見つからなかった。すごく具体的で、かなり切羽詰った状況で、小説に指針をもとめたことがピントはずれだったんだね、と今は思う。
そんなこんなで、ダミアン・フラナガンの言葉が、文学・小説というものへの私の引っかかりを補修してくれた、という次第です。