世界を変えるのはむつかしい、気分を変えるのはかんたん。

世界を変えるのはむつかしい、気分を変えるのはかんたん。
茶店の前に出ていた看板。自分をと言わずに気分とあるのがライトな感じだね。
どれを世の中というのか、そして自分をどうイメージするのか。自分の夢を大きく描くことで、かえって今の自分との梯子をはずしてしまっていることがあるように、世の中と自分との接点を上手く持ち続けることが大切だし、難しいことなんだろうね。
ビリー・ジョエルがインタビューで、「世界に通用するアーティストになりたい、という夢を持っていることはいいけど、今の活動をそのことだけに結びつけてやろうとすることは良くないし、うまくいかない。今のこの場所、この街、このステージで、人々に喜んでもらう音楽をやっていることが一番大切なことなんだ。世界に通用する音楽は、いろいろなことが重なった結果なんだ。」みたいなことを言っていた。
この前から読んでいる「全身当事者主義」の対談の中に同じテーマがあった。
「雨宮:私の場合は、社会的な回路を開いて“こいつが”悪者だ”と声をあげると、すごく生きやすくなります。作法としてそうしているんです。実際、怒って叫ぶことによってその後回復する人がいるので、あえてそうしている部分もあります。でも、そうすることだけが正しいとは思っていません。 月乃さんが生きづらかった体験を伝えるのは、個人的なことのようでいて、ものすごく社会的な要素も孕んでいると思います。そういう社会的な問題を体現している人って、自分が社会的な存在だっていう自覚がなかったりする。
月乃:社会構造の中で病気が生み出されるのは確かだと思うけど、少なくとも表現者として生きようと思ったら、俺は社会的な視線はむしろ持たないほうがいいと思う。病状を語ること、病気の共感がメインなんです。
雨宮:そうですね、まずは個人の共感から始まるんだと思います。自分だけではないんだっていうことを当事者が実感を持って理解するところが出発点。
月乃:“自分はダメだ”という場所から一歩外に踏み出すっていいことですよね。自己表現という自分の居場所を見つけられて、それがイコール社会活動につながるんだったら、明確にプラスの方向に動いてます。
雨宮:支援とか運動も〈居場所〉。私は〈こわれ者の祭典〉ってある意味、社会運動だと思います。ああいうことを人前でやることに意味がある。そもそも表現と運動は同じじゃないですか? ・・・社会的な運動と、個人に向かうやりかたとはつながっている。そこが、面白いです。」